『きことわ』 朝吹真理子
なぜこの本を手にとったかというと、
2015年将棋の名人戦、
羽生名人3勝、行方挑戦者1勝 第73期将棋名人戦七番勝負第4局
羽生棋士に対する描写に痛く感動し、
その記事の切り抜きを、未だにトイレに貼ってるくらい
感銘を受けた文章だったから。
なのです。
けっして、朝吹真理子さんが可愛いからではありません。←ちょっとはある
本作は、
なんとも、水彩画で、尚且つ印象派で、
心にトゲの立たない描写、
ふんわりとした時の流れ、
逗子や葉山などとイメージの良い土地で、
登場人物も、面白いように限定され、
夢かうつつかわからないようなシーンが、永遠に続く。
このまま全十巻くらいまで引っ張れるんじゃないのかという感じ。
作中、心臓疾患で亡くなった母春子のことに関しても、
読者として何の感情もわかない。
ドキドキもワクワクもない。
起承転結すら危なっかしい。
純文学の定義ってなんだろう?
(通俗文学と区別して)純粋な芸術性を目的として創作される文芸作品。
こんなことが書いてありました。
通俗文学って・・・・すごい言われ方だな、しかし。
ミステリーはそうだよね。
現実社会では、ありえないことが普通に作品として成り立つから。
通俗文学というより、娯楽文学とか、大衆文学とも言うのかな。
ってことは、歴史モノは、そこに入らないな。
だから、歴史小説というジャンルがあるのだろう。
たいして、純文学。
たしかに、『きことわ』題名からして、純文学っぽい。
主人公が、貴子と永遠子だから・・・・きことわ
なんとも芸術だ。 ←半分馬鹿にしてる
そもそも、タイトルを、
『貴子と永遠子』にした瞬間、通俗文学になる恐れがある。
確かに、作中ありえないことは起きないし、
文章や表現は果てしなく上品で綺麗。
だから純文学。
かと言って、深い感動もない。
さらっと綺麗で、オーケストラは超一流で文句ない。
でも、裃(かみしも)脱いでもがくとか、汗水たらして、奮闘するとかない。
カラヤンもそうだった。
たいして、フルトヴェングラーとか、オーケストラが合ってないことなんて
しょっちゅう。
第九の最後なんて、ハチャメチャ。でも感動する。
いま日本で、それに近い感動経験をさせてくれるのは、
小林研一郎くらいのものか。
ハンヌ・リントゥと諏訪内晶子もいた!
善し悪しでなく、
好き嫌い なのだ。
自分はそういうのが好き! ってただそれだけ。
でも、羽生名人を描写した文章が未だに忘れられない。
魂に呼びかけてくれるような作品をこの人は書ける気がする。
読後感は悪くないし、腹も立たない、
こういう雰囲気を持った、ゆったりした作品です。
と、そういうこと。
続く 2017.1.14